著作権という法律の目的と手段

著作権の目的は商業芸術文化の維持発展で、その手段としてコピーの禁止や無許諾アップロードの禁止などがある。そして、手段は唯一のものではなく、もっとうまくいく代替的方法が存在するかも知れないんだよねと言う話。


前回のエントリ
動画共有サイトでアニメを見る人は何にフリーライドしているか - Obra de Sobra よしなしごと
に、はてブで以下のようなコメントがついていた。

「動画共有が問題になるのは、無許諾のアップロードが法律に反してるからというのに尽きる。 / 有料サービスなんてのは価格と利便性のバランスを取ればどうとでもなる。要は商売やってる側に試行錯誤が足りないだけ。」(id:himagine_no9


あと。こんなトラックバックもいただいた。
私たちが購入しているのは「権利」? それとも「サービス」? - 万来堂日記3rd(仮)

私たちが閲覧する権利を購入している、っていうんじゃなくて、権利者が権利を利用して展開しているサービスを購入している、って言う方が適切だと思うんだけどなぁ。


閲覧に権利を認めるって、下手をすると情報統制にも発展しかねないアイデアなので、扱うには慎重にならなきゃいかんと思うよ。


そんなコメント等をいただいて、冒頭の著作権法の目的と手段という話を何となく考えたり思い出したりした。
いろいろ間違ってたりするんだろうけど、自分なりの理解のしかたを書いてみる。

著作権の目的

そもそも著作権法がなぜ存在するのかといえば、条文にあるように「著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする」からだ。

著作物の本質とフリーライダーによる利益の強奪

著作物はその性質上、物理的なものではなく、情報という無形のものに本質がある。
情報のコピーというのは比較的容易なので、著作権法で著作者の権利を規定しなければ、勝手に利用し本来著作者たちが得るべき利益を強奪する自体が起きる。


せっかく汗水流して作ったとしても、全然知らない人に利益をかすめ取られるのであれば、だれもが作品を作らなくなってしまうだろう。
その結果、芸術作品等が作られなくなれば社会全体の損失となってしまう。

著作者たちの利益を守る必要性

芸術文化を維持発展させるためには、著作者たち(著作物を消費者へ提供する種々の産業関係者を含む)が適正な利益を得られるようにしなければならない。
著作者たちが適正な利益を得られることになれば、作品は継続的につくられることになり、文化の維持発展につながる。

著作権法の手段

著作権法の目的は、そのままではフリーライダーに利益をかすめ取られてしまう著作者たちが適正な利益を得られるようにし、それをもって商業芸術文化の維持発展を促すことにある。


では、その方法としてどのようなものがあるだろうか。
著作権の考えが出てきたのは、出版業が出始めたころ。
誰かが本を書き、出版社はそれを印刷・販売する。利益は本の印刷・販売をした結果生じるため、本を書いた人は、出版社からその利益の配分を受ける。


本は、紙とインクが価値を持つわけではなく、印刷された情報が価値を持っている。
本の価格についても、本という物理的資産の原価に加えて、情報に対する対価が含まれることになる。
ここで、他の出版社が一字一句同じ文字を印刷したとすると、その出版社は情報に対する対価を支払う必要がないためそれだけ安く市場に提供できる。その結果、元々の出版社の本は売れなくなり、その出版社や本を書いた張本人には利益がまわらなくなってしまう。


これを解決するための方法は、だれもがすぐに思いつく。
コピーを禁止してしまえばいい。


たぶん、こんなかんじで「コピーを禁止」するという手段で、著作者たちに適正な利益をという目的を達するという制度ができあがった。


それが500年くらいつづいて、いまでもコピーを禁止することが、著作者たちに適正な利益を確保するための手段というのがあたりまえのこととなっている。

コピー禁止による著作者たちの保護の限界

アナログ時代のコピーのコスト

以前は、情報をコピーすることが容易とはいえ、本をコピーすることも、CD(その頃はレコード?)や映画フィルムをコピーすることも専用の高価な機械装置などが必要であって、個人レベルでのコピーは基本的には不可能だった。
また、アナログなため、コピーを続けると情報の質が劣化してしまう(音楽とか映画とか)ことや単純にコピー代が高くつく(本の場合)などの理由で、マスターとなる情報を購入してもらえれば私的複製は自由としてよかった。その私的複製に、自分だけでなく家族や親しい友人へのコピーを含めたとしても、権利者たちの利益にはさほど影響はなかった。


そのため、著作権法の違反者に対する取り締まりも、海賊業者など相当な資金力のある者だけを相手にしていればよかった。
その海賊業者らは、著作物の価値にフリーライドすることで利益を得ることが目的に活動しており、その利益プラスαを罰金として奪うことで十分な抑止策となってきた。

デジタル化による権利者利益の減少

その状況が、デジタル化&PCやインターネットの普及によって一変した。
デジタル情報のコピーは、今やだれもが当たり前にすること・できることとなってしまった。
デジタル化&インターネットの普及により、ファイル共有などで、見たことも話したこともない「友人」にコピーしてあげるという行為がかなりの規模でなされるようになってきた。
さらにいえば、その「友人」へのコピーはたいていが無償の行為であって、著作者たちの利益は減少するのだけれども、その奪われた利益は多数が少しずつ手に入れるという状況になってしまった。


送信化権の侵害者に対して、今までの海賊業者のように得た利益プラスαを請求したとしても、利益がゼロな以上、何の解決にもならない。

ダウンロード禁止へ

著作者たちの利益は減少し続けているのに、利益を得ている人は多数でそれもちょっとずつの利益を得ているだけ。
そんな状況をコピー禁止という方法のなかで解決するためには、利益を得た人と法を犯した人を一致させるしかない。


ということで、日本では、消費者の権利を不当なほど侵害してでも著作者たちの利益を守ろうと、ダウンロード禁止の方向へと進んでしまった。

コピー禁止の代替的手段としての閲覧権?

去年、角川歴彦氏がぶち上げていた「閲覧権」というのは、著作権法の目的を達する手段を、コピー禁止から別の手段に転換しようという、代替的手段の提案だったんじゃないかと考えている。


冒頭のトラックバック先の方が、かなり問題点があるという書き方をされていて。(私自身は不勉強でよくわかっていないのだけれど)きっとそのまま実行に移せるほどの完成度ではないんだろうと思う。
権利とサービスの違いとかもよくわかってないし。(今の法律上では見る権利なんて売ってないどころか当たり前にだれもが持っているもので、見られる状況をサービスとして売ってるってことなのかな?)


ただ、物理的なメディアを介さない情報の売買については、コピーに対する制限をするよりも、利用する際の承認という方法のほうが適応度が高いように思う。
承認される権利を購入しておけば、コンテンツ自体は好きにダウンロードできるしコピーして保存しておける。あるいは著作者たちがデータサーバに常に保管してくれて、見たいときに毎回ダウンロードすればよいということになる。
PCアプリケーションなどが、コピーは好きにして構わないけれど利用するときには承認が必要だという形で提供されているのが一番良い例なんじゃなかろうか。


もちろん、利用時点でのコントロールが法律がなければできないのかと言えばそんなことはないわけで。
そこらへんは権利者たちががんばっていくところなんだろう。