ライトノベル作品の認識の仕方

最近、弟の部屋にあった「灼眼のシャナ」というシリーズを読んでみた。
挿絵が多いことに驚く。200-300ページの本に、挿絵が10枚くらい。さらに、巻頭にカラーページが6ページほどつく。それも、すべて登場人物の服装や表情を中心にした絵だけで、背景もほとんどない。
挿絵を描いているいとういのぢというイラストレータが、キャラクターの絵しか描けないだけなのかも知れないけど、挿絵の多さとその描かれた内容に違和感を持った。
けれど、下のリンク先の記事を読んで納得した。ライトノベルでは、絵が作品の中心という見方をされるようだ。小説に絵をくっつけたというよりも、絵に小説が乗っかっていると考えれば、理解できる。
エロゲではヒット作の次回作の売り上げが伸びるけれど、ラノベの場合はそういう話をまず聞かない - REV's blog
id:REVさんによれば、ライトノベルの作品について、作品名とセットになるのが、作家名ではなく、挿絵を描く人になっている。これは、ライトベルの中心が文章ではなく、絵にあると認識しているということなのだろう。
もちろん、id:REVさんの認識が一般的なものかどうかは私には判断できないが、それなりの数の賛同者がいるのではなかろうか。

何かを物語るための媒体としての小説は、見た目を描くのではなく、登場人物の内面を描くことに適しており、必然的にそれが中心になると思っている。しかし、ライトノベルでは、見た目が中心という受けとめられ方をすることがある。そういった見方をする人は、内面描写なんかよりも、登場人物の会話や行動に注意を向けるのだろうか。