アニメ業界を社会主義で? 

アニメに社会主義的な制度を取り入れようというエントリについて考えてみた。

アニメに社会主義

http://blog.goo.ne.jp/skripka/e/ee7a78cbfe3ab0acea520be78c5862d6

いわばTVの深夜枠は、三流劇画誌にとっての自販機のような存在といえるだろう。もし、深夜の放送が自粛されたら、年に150本以上制作されているアニメは受け皿をなくし、なし崩し的に制作数は減少するだろう。バブルの崩壊は、一気にやってくる。そうなったらアニメータの大半は失業し、体力のない下請け、孫請けのスタジオは片端から潰れていくだろう。

そんなクライシスが現実的にやってくる前に、業界としてなんとか手をうっておきたい。それではどうするか。

産業全体のさらなる成長のためには、アニメ業界全体をまとめる「最高意思決定機関」(以降、機関)のようなものが今後は必要となってくるのではないだろうか。少なくとも私は、それが業界再編のカギではないかと思っている。

私のアニメ産業をさらに発展させるための持論は、年間に制作される新作本数を調整することである。現在のように、年間170本だとか180本だとかいう数は異常であり、業界、特に元請以降の末端の制作スタジオの体力を疲弊させるだけだと思う。

ざっくりとした数字だが、私はTVアニメの新作制作本数は年間110本程度が望ましいと考えている。もちろん、一気に三分の二にするとか半分に減らすというわけではない。「機関」が、クリティカルマス(ある商品やサービスの普及率が一気に跳ね上がる分岐点)を考慮しながら、戦略的に調整していくのである。

アニメの生産数が爆発的に増えた要因の一つが「ファンド制」にあるのは、このブログでも何度も指摘しきた。数が増えても、その総量が市場規模に即していれば、問題はない。しかし『エヴァ』以降、アニメには「儲かる幻想」が常に付きまとってきた。そのため、投資家が我も我もと集まり、リスク回避の名目で同時に複数の企画を立ち上げた結果、市場規模を凌ぐ量が生産されるに至ってしまった。供給過剰である。

私は「製作委員会方式」がこれらすべての問題を直接的に引き起こしたとは思わないし、「ファンド制」をどう改めたところですべての問題が解決に向かうとも思っていない。純粋に、この「供給過多」がアニメ業界の総体価値を下げているという問題意識を共有してもらいたいだけなのだ。その上で、アニメの制作または製作に携わる主体の一人ひとりが、どうすれば現状が好転するのかよく考えるようになってもらいたい。


内容がいろいろなところに及んでいて、要約するのが難しいのだけれど。
主たる内容は以下のようなものだとおもう。


現在は、ファンド方式(=製作委員会方式と考えている?)によるテレビアニメの生産過剰。
選択肢が多すぎることで消費者の消費意欲を削ぎ、深夜放送自粛のような事態が起きたときに耐えられなくなって業界崩壊の脅威あり。
それを防ぐために、業界をコントロールする団体が必要。


つまりは、社会主義的な政策によってアニメ業界を保護しようという話。
この供給過多と生産調整という内容に絞って、考えたことをつらつらと書いてみたい。
なお、引用先のエントリを見た上での意見であり、敢えて違う考え方のほうを強調している面があるので、そこらへんは差し引いてもらえればと思う。

ここ10年くらいのアニメの供給過多への道

アニメは基本的に製作委員会方式で製作される。
製作委員会とは、アニメビジネスにかかわる企業が、主にリスク分散と当該アニメ作品の自社事業への利用の2点を目的として、共同出資によりアニメを製作する際に組成されるものだ。
アニメ作品を1本つくるのには数億円の資金が必要で、アニメビジネスにかかわる会社の中に、それを1社でまかなえるほど安定した企業はほとんど存在しなかった。(一つの作品が大赤字になると、会社が倒産してしまうといった状況だった)
その解決策として生まれたのが、製作委員会方式だ。


製作委員会方式が生まれたことで、アニメは通常のテレビ番組とは一線を画し、映画のように作品単体で利益を得る方向へと進むことになった。
このため、アニメでは様々な方法で収益を獲得する試みがなされることになる。商品化、ビデオグラム化、海外展開、最近ではネット配信への積極姿勢などが挙げられるだろう。(ここらへん、製作委員会方式ができる前にすでに商品化・ビデオグラム化ビジネスが存在するため、逆の言い方もできる)


1990年代後半から2000年代初め頃は、そこそこの質のアニメ作品を制作しDVDを売ればそれだけで利益が見込める商売だった。今は1万本売れればヒットといわれるくらいだが、その頃は数万本の売上が確実に見込めた。
要は、「作れば儲かる」という状態だったのだ。


作れば儲かるのだから、どんどんたくさんつくればいい。
しかしながら、業界自体がそれほど大きくなく、銀行からの融資を引っ張ってこれるような不動産を持っている会社もなかった。
そこで、ファンド方式が登場した。一般投資家や銀行から投資として資金を提供してもらうことで作品を作るという方式が試みられることになった。


しかしながら、良い時期はそうそう長くは続かない。
アニメ業界の規模は増加し続けているものの、作品数の増加がそれを上回るスピードで進んだために、1作品当たりの収益力が低下し、赤字となる作品が多くなってきた。


ここ最近になって、アニメはそれほど儲からないばかりか、供給過剰で慢性的な赤字が続き、いつか業界全体が崩壊してしまうのではないかという懸念が生まれた。

供給過多がイノベーションを産む

この供給過多は本当に問題なんだろうか?


もちろん供給過多により、「作っても赤字になる。でも、作らないと自分たちの仕事自体がなくなってしまう」ということで作り続けるしかないということになれば、だんだんと業界が疲弊し、どこかで崩壊してしまう可能性はある。


しかしながら、逆に良いインパクトも存在する。
儲からないがために、常に新たな収益源を模索するという状態が続くのだ。
商品か展開にしても、玩具の他にも様々な商品の可能性が模索されているし、販促のためにDVDにはおまけがつくことが当たり前となってきた。また、映像に止まらず声優コンサートやイベントを行うなども考えられている。
テレビ番組が、なかなかネットへ出てこないことを考えれば、アニメが(それでもまだ遅いとはいえ)比較してどれだけ進んでいるかもわかるだろう。


それはそのまま、消費者にとって一つの作品をより深く楽しめる土壌にもなるのではないだろうか。


儲からなくなってきたときに、死にものぐるいでの努力がなされ、新たな収益源の獲得や(私にはわからないので触れないが)生産面での効率化などのイノベーションが生まれる。その結果、業界がさらに活性化し、利益が増加していくことになる。
イノベーションが生まれない場合にのみ、適度な生産調整が行われる仕組みが機能すればよく、一時的な過当競争は悪いことではない。

コントロール機関がなければ生産調整はできないのか?

引用先のエントリでは、生産調整のためにコントロール機関が必要だという主張がなされているが、コントロール機関がなければ生産調整ができないのだろうか?


まず、製作委員会方式について言えば、結局資金の出してはアニメ関連会社であるために、アニメ製作が慢性的な赤字となれば、出せる資金が減っていく。
そのため、必然的に投資先の数が減る(=作品数の減少)or1作品当たりの投資額が減る(=質の低下)ことになる。
質の高い作品に慣れた消費者が、今後質の低い作品に満足することはありえないと言うことを考えれば、後者の選択肢は採りづらく、作品数の減少へとつながっていくだろう。


また、ファンド方式による一般投資家や金融機関からの出資(業界外からの資金調達)についても、平均的に赤字になる投資先に投資することなどあり得ないわけで、その調達額は減少していくだろう。


そう考えれば、作りたくとも作れない状況になり、生産数が減少していくであろう。
また、1作品当たりの利益額が増加していけば、業界内の資金が増加し、一般投資家にとっても魅力的な投資案件となるために調達できる資金は増加し、再び作品数は増えていくだろう。


問題となるのは、その調整におけるタイムラグだ。
アニメ作品では、投資の決定から回収までの期間が少なくとも3年はかかる。
その結果が出るまでの3年の間に投資が加熱すれば、その後の3年間は非常に厳しいものとなってしまうだろう。
ここ1,2年の状況というのはそういった局面なのではなかろうか?

コントロール機関は生産調整ができるのか?

今度は視点を変えて。
引用先のエントリでは、生産調整のためにコントロール機関が必要だという主張がなされているが、果たしてコントロール機関は十分な生産調整ができるのだろうか?
このできるかという点については、適正な生産数を導き出せるのか、導き出せたとして実際に制限できるのかという2点に疑問がある様に思う。

コントロール機関は適正な生産数を算出できるのか?

アニメ作品が市場に出るまでには、投資の決定から一定の期間が必要となる。テレビ放送の1年前には製作ラインナップは決まっているという話なので、少なくとも1年先の未来の状況を予想できなければならない。そして手に入る実績情報というのは大抵は過去のものであり半年前に放送した作品の結果が現在わかるという程度だろう。つまり半年前の情報から1年先の情報を予測しなければならないわけで、そのタイムラグを埋めるだけの能力が必要となるわけだ。その能力がないのであれば、結局生産調整がうまくできないことになり、タイムラグのある生産調整ならば、上記の市場による自立的な調整で十分と言うことにならないだろうか。


また、供給過剰な状況が新たなイノベーションを生むという効果を考えれば、現状のままという条件で適正な生産数を算出することは適当ではない。
その場合は、業界の発展のためといいながら、既存企業の小さな利益を確保するために、業界全体を大きくしていくという未来の可能性を放棄するという状態になりかねない。
これは、テレビ業界の動きについて散々批判されていることと同じだろう。

次に、コントロール機関は物理的に生産数をコントロールできるのか?

コントロール機関は、物理的にアニメ生産数をコントロールできるのだろうか?
法的規制なしに、機関未加盟の会社はアニメ作品を作ってはならないと言ったところで、何の強制力もないことになる。
そこらへんを、うまくやる方法はあるのだろうか?
ハリウッドのように制作スタッフのギルド的組織を作り、ギルド参加者と契約するためにはコントロール機関加盟が義務づけられるという方法とかだろうか。

結論として

私も、そういったコントロール機関が必要なんじゃないかと言ったことを夢想してみたことはあるのだけれど。
結局、このような考え方から、コントロール機関の存在といった社会主義的な政策は望ましいものではないんじゃないか、という考えになった。

追記(おまけ)

枕詞として使われている、選択肢がたくさんあると逆に選ぶ意欲を失わせるという話について。

「選択肢の過多」が、「選べない人」を生むだけでなく、「選ばない人」と増やすという問題は、2000年にコロンビア大学社会心理学者が記した論文『選択が意欲をそぐ場合:良い物があまりに多く用意されている時、人は欲求を抱くことができるのか?』によって表面化した。この論文は、選択肢が多すぎると無難なものを選んでしまったり、間違ったものを選んでしまうだけでなく、「選び出す意欲」すらなくしてしまうということを実証したもので、特にマーケティング方面へ大きなインパクトを与えた。

今のアニメ業界も、「選択肢が過多」になってはしないだろうか。70年代後期の「三流劇画(エロ劇画)ブーム」と同じような状況がアニメ業界に起こっている。いわばTVの深夜枠は、三流劇画誌にとっての自販機のような存在といえるだろう。もし、深夜の放送が自粛されたら、年に150本以上制作されているアニメは受け皿をなくし、なし崩し的に制作数は減少するだろう。バブルの崩壊は、一気にやってくる。そうなったらアニメータの大半は失業し、体力のない下請け、孫請けのスタジオは片端から潰れていくだろう。


大元の論文は、コレらしい。
http://www.columbia.edu/~ss957/whenchoice.html


日本語の題名は、こちらのエントリで付されたものだろうか。
http://wiredvision.jp/news/200710/2007100921.html


(日本語エントリのほうを読んだだけで、論文は読んでいないのだが)この論文における設定は、買わなくても良いが割引券が置いてあってちょっとお得というもので、買う必要が特にはないというのが前提条件となっているように思われる。
アニメは、基本的にコアなファンを対象としたビジネスを展開しており、積極的に消費をしたいという動機を持つ消費者が対象となっている。つまり、この論文の前提条件が、アニメビジネスにおいて成りたつとは言いにくいような気がする。


また、他のコンテンツ(音楽、映画、小説、マンガなど)を考えてみると、どれも選択肢が多すぎるという状況と言えるだろう。しかしながら(最近は辛い状況にあるとはいえ)これらのコンテンツは十分にビジネスとして成立し続けている。
現在のアニメ業界の小ささを考えれば、選択肢の多いことが選ぶ意欲を失わせるという悲観論よりも、他のコンテンツ同様もっと大きな広がりを目指すという積極的な考え方をしていくべきとも思う。