テレビドラマと映画-フジテレビ亀山氏の講演

邦香シネマ倶楽部通信 劇的3時間SHOW “亀山千広”(http://blog.mag2.com/m/log/0000220403/109061243.html)より。
興味深い点をいくつかメモ。以下、引用先を特に示していないものは、上記のリンク先からの引用です。

テレビドラマの制限

スポンサーの意向

 亀山氏はある時期,多くのテレビドラマをプロデュースしたが,そこにはスポンサーあってのテレビドラマである故の制限がある。
 例を挙げよう。あるドラマで夏の海水浴のシーンを撮ろうとした。まず海辺でビールで乾杯のシーンが欲しい。しかしながら,出演者はスポンサーのビール会社とは別の会社のビール会社と契約があったのである。当然乾杯すべきビールはドラマスポンサーのビールでなければならないが,出演者はそのビールを手にすることもできないのだ。日本酒で乾杯にすれば?という案も出たが,さすがに夏の浜辺で日本酒は…となり,結局乾杯シーンは切らざるを得ず,浜辺へ来て即海へ飛び込むといった嘘臭いシーンとなってしまった。

これは、役者やテレビタレントの収入におけるCMの比重が大きいことも影響している。
役者が役者としての仕事だけで得られる収入に比べて、CM出演による収入が非常に大きい。そのため、CM出演が優先され、スポンサーの意向により出演できる可能性のある作品が減るということも起こり得る。


CMに富が集中する、日本のメディアのエコシステム - michikaifu’s diaryより

日本では、俳優は「テレビドラマで顔を売って、CM出演で儲ける」仕組みになっていると思っていた。アメリカは、俳優組合の仕組みのせいかどうか知らないが、映画俳優・テレビ俳優・CM俳優は比較的はっきりと分離していて、階層的にはこの順番のカーストになっている。これに対し、日本では、一人の俳優がどれにも出るが、映画やドラマでは儲からない。一方、日本のCMはなんせ儲かるから、アメリカではCMなぞに絶対出ないトップ級のハリウッド俳優も日本ではCMに出る・・・


一瀬隆重氏の講演 - Obra de Sobra よしなしごとより

日本ではテレビドラマをメインに俳優が育ち、トップの俳優はCMで稼ぐという構図になっているため、品行方正な人しか生き残れないからとか。CM契約で1年数千万×数本に対し、ドラマ・映画はせいぜい1本1000万程度。テレビドラマで知名度をあげ、CM契約で稼ぐというのがサクセスストーリー。そして、CMに出るためには、イメージが良くないといけない。

視聴率の優先

 また,テレビで重要なのは,やはり視聴率である。
(略)
だから,テレビドラマを作る場合,視聴者をいかにテレビの前に連れてくるかを考えなければならないのだ。どうするかと言うと,視聴者には徹底的にサービスするのである。たとえ設定では「泣き虫」の主人公であったとしても,視聴者が泣かない主人公を求めていることがわかれば,それ以降は泣かすことはしない。もし,主人公を泣かせてしまうと,視聴者はだんだん引いてしまい,番組を観なくなってしまうからだ。テレビの前に視聴者を連れてくること…これこそが重要なのだ。そういう意味で,テレビの連続ドラマというのは視聴者と共にキャラクタを作り上げていく過程であるとも言える。ここは映画と大きく異なる点である。


視聴率が優先されること、及び、放送後すぐに視聴率の数字が出てくることから、視聴者が望むものを見せるためにリアルタイムで変更することが要求される。
極端な言い方をすれば、クリエイターの意見よりも視聴者の意見が優先され、視聴者に媚を売る作品しかつくれないということになる。

視聴者が見えない

 テレビの作り手は自分の番組を見ている視聴者の顔がわからない。見たことがないからだ。作り手としては,泣くシーンでちゃんと泣いてくれているか?笑うシーンでちゃんと笑ってくれているか?が気になるのである。その点,映画は映画館に行き,最前列の端あたりに席を取れば,自分の映画に対する反応を直に見ることができる。映画というメディアのメリットである。


フィードバックが得られるかどうかと言う話なのかなあ?視聴率というフィードバックではどの部分が予想通りの反応が得られて、どの部分に失敗しているかなどの特定の部分がわからないということかな。

映画はイベント

 亀山氏は 3mm, 3cm, 3m, 30m でメディアを考えている。3mm メディアはコミュニケーション(携帯電話),3cm メディアはインターラクティブ(パソコンや書籍),3m メディアはマスコミュニケーション(テレビ),そして,30m メディアはイベント(映画,コンサート)である。映画とはイベントなのだ。そして,映画は長くても2時間の尺に抑えなければならない。それ以上の長さになると,まず一日の上映回数が減ってしまう(亀山氏はテレビ放映の枠が2時間ちょっとである点には触れなかった)。


メディアの分類。あんまりピンと来る表現ではないけれど。そういうものなのかな。
映画がイベントだというのは、一つの視点としてはありだと思う。テレビ屋さんにとっては日常的にテレビを見てイベントとして映画を見に行くというスタイルで、テレビの特別版としてイベント(映画)を見に行ってくれればいいということなんだろう。
一方、映画業界にとっては、映画をいかに日常化するかということが重要になるのだろう。

テレビドラマと映画の関係

何故テレビドラマを映画化するのか?という命題への解答の一つでもあるのだが,映画を観た帰りにレンタルビデオ屋に
寄る。するとそこには,今観て来た映画のテレビ版がビデオとして並んでいる。映画と同じキャストで別の話がまた観られるではないか!

 何故テレビドラマを映画化するのか?という命題に対してはもう一つ解答がある。映画部門はテレビ局ではメインではない脇の存在である。なくったって全然構わないのだ。だからこそ,少しでもテレビ部門を巻き込んでみたい。そし,テレビ部門の奴らを少しでもハッとさせてやりたいのだ。


後者の引用については、そういうものなのかと思う程度。
前者については、テレビドラマを映画化することで、いわば「おかわり」や「デザート」を提供するということに価値があるということだろう。映画を見たあと、テレビ・DVDで同じキャストの別の話が見られる。気に入ったテレビドラマの特別版・豪華版が映画で見られる。その前提となっているのは、映画とテレビドラマの同質性だ。
テレビ屋さんにとっては、映画とテレビドラマに本質的な違いはないと考えているのだろう。映画とテレビドラマが同質の娯楽を提供できる。小説で言う本編と外伝だったり、長編と短編というような感じで同じ作品の別の話を提供するという補完関係を築ける。
それは映画業界の人・映画好きな人にとっては、あまり受け容れられる考え方ではないように思う。1秒1分を大切にして時間をかけてつくりこむ映画と、やっつけで毎週作るテレビドラマじゃ全然違うという主張にも正当性があるからだ。ただ、映画とテレビドラマの違いをそのように認識する人は、それほど多くないのかもしれない。


映画の商業性

 映画というメディアが芸術であるとか文化であるとかいう意見があるのはよくわかるが,映画を作るのであれば,やはり客に来てもらわなければならないのである。そのためには,あらゆることをやるのだ。
 封切日まではテレビというメディアが使えるということを最大限利用して,宣伝活動に努める。ただし,やりすぎはよくない。27時間テレビを使った「西遊記」の宣伝では,最初の案では慎吾がず〜っと悟空の格好をして…というものであったが,そこまでやると,それだけで観に行こうとする人たちが満腹になってしまうに違いないと思い,別のキャラクターの格好もしてもらったという経緯はあった。
 次に,コンビニとタイアップし,観客が映画館へ行く途中でも盛り上げていく。
 映画館ではロビーも重要だ。ここは既に映画を観終った観客とこれから観ようとする観客がすれ違う場所である。映画館内から漏れてくる客の声や出て来る客の会話や雰囲気で,これから観ようとしている観客は盛り上がるのだ。
 そして,アフターケアも忘れてはならない。何故テレビドラマを映画化するのか?という命題への解答の一つでもあるのだが,映画を観た帰りにレンタルビデオ屋に寄る。するとそこには,今観て来た映画のテレビ版がビデオとして並んでいる。映画と同じキャストで別の話がまた観られるではないか!
 そう言えば,昔「踊る大走査線」の頃は,シナリオをインターネットに「わざと」流出させたことがあった。数時間だが,結末部分を除いたシナリオを全てインターネットに掲載し,君塚君たちと一緒に,別人になりすましてインターネットで色々と話題を振った。そういう意味ではインターネットの歴史と共に歩んで来た感もある。ネットも宣伝媒体として使うことを考える必要がある。
 さて,映画の企画を考える際,重要なのは,映画公開日までどの時点でどういうことをやっていき,公開が終わり,自分が拳を挙げて「やった!」と叫んでいる姿まできっちりと頭の中で構成できるかどうかということだ。それができない奴の企画を通すことはない。そのくらい映画に自分を賭けられるかどうかということだ。


イベントとしての映画を盛りあげるための宣伝方法。
テレビのメディアとしての特性と同様に、消費者が興味を持った情報を能動的に取りに来るのを待つのではなく、日常生活に情報を埋め込むことで潜在的な消費者が受動的に情報を手に入れるような仕掛けをすることが念頭にあるようだ。
日常的な映像の消費の場であるテレビを有効活用し、さらに日常生活でだれもが立ち寄るコンビニとのタイアップも行う。さらに、これから日常生活の一部となっていくであろうインターネット(携帯も含めてだろう)での宣伝も視野に入れている。
関連するかはわからないが、インターネットでは情報がいろんなところに散らばっているため、ここを見れば大抵の情報が手にはいると言った場所が存在しない。それ故にユーザが興味を持ったことについて能動的に情報を手に入れる場となっていて、受動的に情報を受け取る場にはなっていない。下の引用でもそんなことが書いてある。


http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/10/17/index.phpより

 インターネットが普及し始めた頃は、多くの人があちらこちらのサイトに注目していたし、掲示板も大勢が閲覧し、情報が伝わるのも速かった。最近は、サイトも爆発的に数が増え、情報に溢れかえり、多くの人たちは自分のブログを書き、仲間数人のサイトを斜め読みするのがやっとだ。とにかく、娯楽は増え、時間がない。情報収拾にかける時間は減っている。したがって、情報伝達にとにかく時間がかかる社会になった。
 某元アイドルタレントが、離婚したことを自分のブログで発表したのに、半年間も芸能関係のマスコミは誰も気づかなかった。ファンは読んでいただろうが、その噂はまったく広がらなかった。
 押井映画の発表は6月だったが、これを知って「びっくりした!」とブログに書いている人が、4カ月も経った今でもいて、毎日そんなブログを数カ所発見できる。ネットでは、情報はじわじわと広がるのだ。
 宣伝は間際になって、花火のように打ち上げる、といった考えは完全に古いという話を、昨年のコカコーラ・キャンペーンのときに、電通の人たちに話した。ゲーム業界はこれをよく知っているみたいで、半年以上もまえから宣伝を流し始める。

映画館の稼働率

http://www.bunkatsushin.com/modules/bulletin/article.php?storyid=14525より

全国すべての映画館の席数は240万と言われている。これが1日中1年中満員だと1兆円産業だ。しかし昨年、一昨年の全興行収入は2000億円、つまり20%しか席が埋まっていないことになる。日本人の65%が1年間映画館で映画を見ていないというデータもある。そこでテレビ局がテレビドラマを映画化することで、映画館に足を運んでくれるのではないか。確かに普段映画館に来ない客が来るようになり「マナーの悪い客が増えた」「映画館が荒れた」という声がある。だがそういった人たちが来てくれると「産業」になる。映画界のホリエモンと呼ばれ(笑)、ビジネスの権化のように言われるが、“次の人”が育つ可能性があると信じてやっている。


数字について。
全国で現在3000スクリーン強。1スクリーンにつき平均200席。さらに、1日4回上映すると考える。
この条件で1日の定員数を計算すると、3,000×200×4=2,400,000と、ちょうど240万人となる。たぶん、座席数というのはこの数字なんだろう。
そして、1年間365日上映し、1人1回あたりの平均入場料1233円*1をかけ算すると、2,400,000×365×1233=1,080,108,000,000 。確かに1年間ずっと満員であれば1兆円の興行収入が得られる計算になる。
定員のうち2割しか入ってないのが、映画興行の世界なんだなあ。たとえばエヴァンゲリオンで連日満員だったという事実の凄さがとてもよくわかる。


テレビ局主導の映画によって、邦画で興行収入が50億円を超えるような大型作品が増えてきたのは確かだ。
ただ、映画興行全体の規模が増えているかと言えば、スクリーンの増加に対して興行収入の伸びが少ないという状態が続いている。邦画の伸びがそのまま洋画の縮小となっていて、ハリウッド映画からテレビ局主導映画へ観客が移っただけで、新たな顧客の確保につながっているかといえば、現状では首をかしげざるを得ない。
国内の映画制作者にとっては市場が広がっているから良い結果となっているという見方もできそうだ。

実写映画の歴代興行収入1位が「踊る大捜査線

 今の日本映画の興行収入は一年でたかが2000億円である。一つの映画館に一回の上映で平均して入る入場者を計算してみると,定員のわずか20%程度である。これを倍にするだけで,興行収入は4000億円となるのだし,映画人はもう少し客を釣る方法を考えた方がいい。
 洋画や邦画と別ジャンルとしてテレビ局映画というジャンル分けまでする人がいる。我々の作っているのは邦画ではないのだろうか?テレビ局の作る映画云々を言う前に,「踊る大捜査線」が邦画実写映画の興行収入歴代1位であるということを映画人は考えた方がいい。これを超える映画を作って初めて何かを言うことができるのではないだろうか?


これは、ごもっとも。

テレビマンと映画制作者の収入の格差

 テレビマンが映画を作りながら,映画人とは違い,数千万の給料をもらっているのはおかしいようなことを言う人がいるが,それは間違いである。給料というのはテレビというメディアからもらっているものであり,映画を作ったからということでもらっているわけではない。
 テレビ局製作映画であれ,映画が収益を上げてくるならば,映画スタッフの給料も自然と上がってくるはずであ。我々も一度仕事をした映画スタッフとは繰り返し仕事をする。彼らの持ち分は少なくとも上がってきているはずだ。


これは、同じ講演シリーズで映画プロデューサの一瀬隆重氏が言っていた言葉をうけての発言。一応の答えにはなっているとおもう。
テレビ番組についてもテレビ局職員に比べ、制作に携わるスタッフの収入が低いことは知られている。テレビ局職員の給料は、テレビというメディア(規制産業かつ独占的な地位)の付加価値によるもので、制作された番組はテレビで放送されなければ収入を得ようがないという力の差によって、収入の格差が生じることと同じでしかないということになるだろうか。